稲作の登場と律令制の導入

弥生時代

 稲作は、紀元前4世紀頃から始まったと言われています。弥生前期の水田は、比較的大きな河川の下流部に発達した後背湿地や谷地の湿地に作られました。
 弥生後期になると、鉄器が普及し始めます。鉄器の出現は、農業に少なからずの革命をもたらします。地面を掘るのが容易になり、簡単な水路(灌漑施設)を造ることが可能となったからです。後背湿地や谷地の湿地以外の場所にも水田が造られ始めます。静岡県の登呂遺跡(AD100~200年頃)は、その代表的な例です。


図1:川の構造


*後背湿地…洪水流などで運ばれた土砂は河道の両わきに堆積して自然堤防をつくります。また、川の中にも堆積し河床を高くします。そのため川から離れた場所は河床よりも低くなり、湿地になります。これが後背湿地であり、もとは河川の一部だったところです。水田の多くは後背湿地に造られています。


大和政権誕生へ

 このような稲作の進展による灌漑施設の建設は、集落ごとに個々の労働力を組織的に使って行われました。
 やがて集落間に貧富の差が生じ支配関係が進行する中で、大きな集団への統合が進み、政治的に有力な集団(クニ)が整備され、次第に古代国家の形成を促しました。そして、いわゆる大和朝廷が成立します(4世紀中頃)。

 5世紀後半には、 U字型鍬・鋤先とよばれる深耕型の農具が使われるようになり,水田開発はかなり広い範囲で,しかも計画的に行われるようになりました。このような水田耕作の拡大・発展は大きな富の蓄積を可能にし、古墳時代を迎えます。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳、渋谷向山古墳など、周囲に堀を巡らした巨大古墳の建造は、当時の豪族の富の大きさと土木技術の高さを雄弁に物語っています。


石川池(奈良県橿原市)の古墳(孝元天皇の御陵)。この池は、ため池となっており古代における土木技術の高さがうかがわれる。



奈良時代

 その後、我が国は大化の改新(645年)によって唐の律令制度を基にした公地公民制を採用し、中央集権的な支配体制をつくり、古代国家を完成させることになります。いわゆる律令制といわれるものです。また、この後、農地と農業水利の整備・拡充が国家によって強力に進められ、今日にも残る条里制が確立しました(7~8世紀頃)。なお、この時代の技術や制度は、条里制も含めて、ほとんどが大陸から輸入されたものでした。