明治時代

地租改正と士族授産

 明治政府は、明治6年から明治12年にかけて地租改正を行い、土地売買を自由にするとともに、地租の現金化を実現しました。地租改正は、土地の私有制度と明治政府の財政的基盤を確立したこととして意義があります。
 この時期、士族の失業対策のため士族授産開墾が数多く進められました。とりわけ、明治12年に始まった那須野原の士族開墾、国営の安積疏水や、関東・北海道に多かった士族団体、旧領主の保護による士族開拓が有名な事業です。また、明治用水(明治12年着工)、那須疏水(明治17年着工)などの大規模灌漑工事もこの時期行われています。
 一方、地主や自作農は、地租改正により土地所有権が与えられたことにより、生産意欲が向上し、地主や上層農民たちが指導した土地改良事業が広く行われました。

 これらの事業の中で特筆すべきことは、畦畔改良をはじめ、各地で水田の区画整理が進展したことです。明治20年頃からは区画整理が活発となり、いわゆる「田区改正」時代を迎えました。上で述べた土地改良の分類によれば、「第3の形態」が増えてきたことになります。



水利組合法と耕地整理法

 この時期は、現在の土地改良制度における法的基盤の萌芽が数多くみられました。まず、明治23年に水利組合条例が制定され、農業用用排水については、「区費負担」の原則が確定し、農村の水利機構の一本化と管理体制が確立しました。
 明治41年には水利組合法が制定され、水利組合条例に替わる水利行政の強化(普通水利組合の創設)が行われました。 次に、明治32年には、耕地整理法が制定され、地主を中心とした耕地整理に法的裏付けが与えられることになりました。耕地整理法は、日清戦争(明治27~28年)前後から急速に進んだ工業化、都市化という動きの中で、米の増産を目的とし、プロイセンの土地整理法の考え方を導入したもので、特に交換分合と区画形状の変更に重点が置かれていました。


近代的農業土木の制度的基礎

 しかし、沖積平野の生産力の拡大には、湿田の乾田化が不可欠であり、明治38年の耕地整理法の改正では、灌漑排水が工種として加えられました。また、明治41年にはこれまで府県が補助していた耕地整理事業の費用の一部を国が補助することになりました。さらに、明治42年には、開拓・地目変換を加え、用排水事業を主目的としました。ここに、近代的農業土木の制度的基礎が成立したことになります。

 耕地整理事業は、埼玉県鴻巣町・常光村で明治35年に着工された方式をモデルとしています(「鴻巣式」という)。耕地整理法の下で施工認可されたものは、1900~1939年の40年に全国で3万4000地区、面積的には121万haにも及んでいます。
 北海道については、明治35年に北梅道土功組合法を制定し、国庫補助による北海道の開田政策を強化しています。  耕地整理法、水利組合法、北海道土功組合法とも、団体による農業水利の改善と管理を推進しようとしていることに注目されなければなりません。