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 1868年、王政復古の号令とともに新政府が樹立し、いわゆる明治維新が成立します。榎本武揚など旧幕臣は五稜郭に立て籠もり最後の抵抗を見せますが、翌年、五稜郭の陥落をもって戊辰戦争は終結し、名実ともに明治政府が誕生することになります。蝦夷の地も北海道と改め、省と同格の中央官庁である北海道開拓使が設置されました。


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【写真】開拓使顧問ケプロンと外国人技術者達

 明治維新後、国策は一変します。失業した士族の救済、ロシアの侵攻に備えた屯田兵の創設、そして何より、欧米列強に対抗するため富国強兵の道を歩み始めた新政府にとって石炭、木材、硫黄などの無尽蔵とも思えた天然資源は、日本近代化の大きな原動力とうつりました。つまり、北海道開拓のもっとも主要な動機は、日本近代化のための資源の開発であり、このことが、北海道開拓の基本的なパターンを決定しました。


 明治に始まる開拓使の設置は、北海道を維新後の国力増強に活用し、士族に授産することを目的として、札幌の開発、道路・港湾・鉄道の整備、鉱山開発、官営工場の建設、札幌農学校の設置などを進め、集団移住者と屯田兵による開拓を推進します。こうした中央主導型の開発とインフラ整備が、北海道農業の骨格を築き上げたといえるでしょう。


 それまでは函館が中心地でしたが、南に偏りすぎていたため開拓使は札幌に移されます。そして明治4年、黒田清隆が10年間1000万円をもって総額とするという大規模予算計画を建議し、いわゆる「開拓使10年計画」が決定されます。


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【写真】旧北海道庁舎

 黒田は開拓使長官になると、その潤沢な予算を使って39の各種官営工場の設立、幌内炭山の開発、その石炭輸送のため幌内一小棒間の鉄道を敷設しました。また、アメリカの農務局長ケプロンら顧問の招聘し、西洋式農業の移入も図りました。


 クラーク博士を招いて設立した札幌農学校や官園(東京、函館、札幌の農事試験場)によって開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり、新道の建設や札幌、幌内炭坑を結ぶ幌内鉄道の建設などの交通手段を整備します。さらに、ビール、製糖、製麻などの農産加工工場や木工、鉄工、製網など生産や生活にかかわる諸工場や各種の鉱山など多くの官営事業を営みました。


 また、開拓使による最初の移民政策は、政府募集の移民を送り込んで定住させるというものでした。移民には、米、費用、農具などを与えるという政府の補助がついていましたが、それほど効果はあがらず、明治5年には募集をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えました。そして、明治6年、政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始します。


 北海道開拓使は明治15年に廃止され、函館県・札幌県・根室県の3県が設置。しかし、この3県時代は開拓不審の時代であったといわれています。明治18年、ハーバード大学で法律を学んだ大書記官・金子堅太郎によって詳細な北海道視察が行われ、その建白書に基づいて翌19年、3県を廃止して北海道庁が誕生することになります。

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