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 昨今、首都移転で有力な候補地のひとつとなっている栃木県の那須野ヶ原(那須塩原市)。

 那須野といえば、天皇家の那須御用邸をはじめ、松方正義、大山巌、乃木希典など明治の元勲や将軍達の別邸や墓があるなど、もともと皇室や中央政界とのつながりが深いところです。


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■青木周蔵別邸

 塩原町にあった旧御用邸は、警視総監も勤めた子爵三島通庸が大正天皇に献上したものであり、それが縁でこの地が皇室の静養や疎開先となったといわれています。三島通庸は、土木官僚としても有名ですが、この地で初めて大農場を開設した人物。農場主であった通庸の子・三島弥太郎は、明治初期アメリカに留学しボストン大学で農政学の学位を取得したエリートで、後に日銀総裁を務めています。大山巌元帥の娘との結婚を巡る悲話は、当時ベストセラーとなった徳富蘆花『不如帰』のモデルとしても知られています。その大山元帥も、国葬によってこの地に葬られています。


 乃木大将は、この別邸に来ると、自ら鎌や鋤を手に畑仕事にいそしみ、近隣の農夫とも親しく付き合うなど、この地の田園生活をこよなく愛したと言われています。

 その他、この那須野には明治の貴族たちの遺跡が数多く残されています。

 那須野と明治華族の結びつき―――明治の初期から中期にかけて、この一帯は華族たちの大農場が次々と展開された場所でした。明治30年代までに30以上あった農場の実に約4分の3が華族のものであったと言われています。それも大半が明治維新の英雄、当時の政府の中枢メンバーです(カッコは所有面積)。


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■三島農場

 したがって、同じ明治期の大規模開墾でありながら、安積疏水や他の開墾事業とは少なからず様相を異にしています。

 例えば、安積原野の開墾はほとんど窮乏士族の手によって行われました。他の地域もそうです。

 いや、もともと明治政府によって奨励された原野の開拓は、維新によって俸禄を失った士族の救済がその目的であったはずです。

 しかし、この那須野ヶ原はどうでしょう。

松方農場などは1,640ha。まるで英国貴族の農場です。安積開墾でできた桑野村が人口700人で200ha程度の田畑ですから、規模としては比較になりません。


 さて、安積、琵琶湖と並んで日本三大疏水に数えられる那須疏水。

完成にいたる男達のドラマや華族農場ができた背景などを探ってみます。


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■千本松農場

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