head 十郷用水:丸岡町東二ッ屋
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 この平野は、公地公民制が揺らぎ始めた奈良時代の末期から、すでに多くの土地が奈良東大寺の荘園として寄進されていました。桑原荘、溝江郷、子見荘といった荘園は「五百原堰[いおはらぜき]」という水路から取水していたことが古い文献に記されています。

 さらに平安時代に入ると、荘園の支配者は東大寺から春日社興福寺に移ります。中でも河口荘十郷、坪江荘は「北国荘園」とも称されて、興福寺所領の荘園として大和国以外では最大規模でした。


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下安田分水工(七番堰)

 この河口荘十郷のために造られたのが「十郷用水」。

 春日明神のお告げにより、九頭竜川を塞き止める十郷大堰(鳴鹿堰堤[なるかえんてい])を建設。そこから延々七里(28km)を掘りぬき、「五百原堰」と繋いだと言われています。開削は、天永元年(1110年)。寛弘六年(1109年)という説もあります。いずれにせよ、文献上でこうした名称がつけられた大規模水路としては、尾張の大江用水(現在の宮田用水)と並んで、我が国で最も古い水路のひとつと言っても過言ではないでしょう。


 この十郷用水からは、その後、新江、高椋、河合春近・・・といくつかの用水が分流され、江戸時代には10万石を生み出す大動脈となりました。

 奈良時代から今日に至るまで、世の中は当然のことながら、すっかりと変わりました。貴族も武士もいなくなり、馬で歩いた道には車が走り、今は飛行機さえ飛ぶ時代です。

しかし、そうした激しい変化にもかかわらず、この十郷用水は、千年の間も姿を変えず働き続けています。永平寺や白山神社に劣らず、越前平野が最も誇るべき遺産ではないでしょうか。