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1万ヘクタールに及ぶ広大な胆沢平野を潤す水源となる胆沢川の水は、日照りが続くと極端に減水する。毎秒20トン以上も必要とするかんがい用水に対し、川の水は水流を形成出来ないこともしばしば!

深刻な水不足のため、乾いた水田には無数の亀裂が生じ、枯死寸前の稲が目立つ。


人々は一滴の水も無駄にしないよう交代で用水を使う『番水[ばんすい]』を強化し、駆けずり回った。

上流の水門などを開けて水を引いても、下流の水田に用水が到達するころには上流の水田に水を引かれてしまう。すぐ引き返す。幾度となくこうしたことの繰り返し!

『馳[は]せ返[かえ]り』という言葉がこれを物語る。


それでも鎌やトビといったものは持たず、流血を防ぐ、いわゆる『番水の掟』は守られた。水不足の解消が限界に達したとき、茂井羅堰や三堰がかりの村人達は胆沢平野からあおぐ駒ケ岳や八郎沼に、また、寿安堰がかりの村人達は高檜能山やつぶ沼に登り、神霊に雨を降らせてくれるよう祈った。一方で、八郎沼では沼に石を投げこみ、沼の主に悪口雑言の限りを尽くし、つぶ沼では屈強な若者が腰に命綱をつけて沼に入り、沼の神聖を汚すように暴れ回りながら沼の主を怒らせるという『雨乞[あまごい]』の儀式が行われたが、枯れかかった稲を蘇生させるには程遠いものであった。

このようにして水を求め、水争いを調整する農民、水利組合、そして土地改良区の苦労は並大抵のものではなかった。


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写真は平成6年8月の大旱ばつ時に胆沢扇状地の高台にあたる、上野原段丘部の前沢町赤坂付近で撮影された水田の亀裂と用水手当の状況である。

この上野原段丘部は、通常でも、しばしば稲の出穂期には8月上旬から石淵ダムの貯水位減少により用水不足に見舞われる常習地帯である。

このため現在実施中の国県営農業水利事業とともに、胆沢ダムの早期完成が待ち望まれている。


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旧寿安堰の取水口は、茂井羅堰の約1キロメートル上流に設けられたが茂井羅堰優先と言う原則から、通称『木の葉止め』(自然取入れ)と言われる取水方法がとられた。

そもそも自然取り入れは、河川水位が安定している場合の取水方式であり、胆沢川のように流況が不安定な河川ではむずかしい方法である。

現に近年まで洪水の度に砂礫や、転石などが流入するため取り入れ水路の復旧普請が農民総出で行われてきた。


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胆沢川からの取水は茂井羅堰優先の原則が貫かれていた。その形が胆沢川から取水する方法に如実に現れている。即ちそれは胆沢川を横止めし、流水を堰上げして全量取水する方式であった。

昔は春秋の年二回、農民達によって木杭、木材、石詰めなどによる川止め作業が行われて来たが、度重なる洪水により堰は流され、その度毎に苦労を重ねながら復旧に当たってきた。


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寿安堰の取入れは茂井羅堰の上流に築造された。

新田(新規開発者)である寿安堰が、旧田(既得権利者)である茂井羅堰の上流から用水を取水するには、当然既得権利者たる茂井羅堰の了解が要る。寿安堰は胆沢川を締め切ることを許されなかった。渇水のときにも下流の茂井羅堰に川の水が下るようにである。そのような約束があっても、茂井羅と寿安はその後たびたび水争いを繰り返した。そして、その解決には、300年以上の長い年月を要した。


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