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どこか歳時記[さいじき]の詩趣を思わせるゆかしい地名である。

正式な市町村名ではないが、南・北安曇郡一帯、とりわけ大町から松本にいたる細長い盆地を安曇平、あるいは安曇野と呼ぶ。


この名が全国に知れわたるのは、臼井吉見[うすいよしみ]の長編小説『安曇野』*1からであろう。

しかし、それ以前にも、明治末頃から、武者小路実篤[むしゃのこうじさねあつ]の書簡[しょかん]や若山牧水[わかやまぼくすい]らの短歌界でも安曇野という言葉が使用されていたという2。

いずれにせよ、文人好みの、あるいは、文学的イメージが定着してしまった珍しい例ではなかろう


確かに、字面がいい。語感も悪くない。歴史好きの人にとっては古代史の謎とロマンをかきたてる名前でもある。しかし、それだけでもあるまい。

少なくとも、北アルプスの美しい景色とあいまって、この地方には、明治の世から東京の文人達をひきつけてやまぬ何かがあったに相違ない。


松沢求策[まつざわきゅうさく]、木下尚江[きのしたなおえ]、井口喜源治[いぐちきげんじ]、相馬愛蔵[そうまあいぞう]夫妻、荻原碌山[おぎわらろくさん]*3……、明治という日本近代化の夜明け、この地方の出身者が、政治、経済、文化、芸術の各面において果たした役割は少なくない。


「富士の秀峰の美をば私も之[これ]を認めるけれ共[ども]、私の精神を動かし得るものは乗鞍鎗ケ嶽[のりくらやりがたけ]のゴソゴソした山である*4」。碌山は自ら彫刻を志した理由をこう述べている。

時代の栄達[えいたつ]に流されず、不器用なまでに屹立[きつりつ]しようとしたこの地の出身者達。

小説『安曇野』でも描かれた彼らの、自らを厳しく律した生き方は、当時の世相に鮮烈な印象を与えたに違いない。


彼らの精神の奥底を形成したものは、この北アルプス特有の哲学的風貌、あるいは、安曇野という詩的イメージとは裏腹なこの山里の厳しい水土[すいど]ではなかっただろうか。

現在、この地は年々多くの観光客を集めながら、長野県でも屈指の穀倉地帯を維持している。


しかし、それは決して恵まれた地形や風土によるものでなかった。


「最良の肥料は農夫の足跡である*5」。


ここに生きた無数の農民達が自らの手と足で踏み固め、掘り起こし、この地の類いまれなる水土をつくってきた。そして、そのつくられた水土が、有名無名を問わず多くの人物を育ててきたのである。


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*1

昭和四十九年に完結した長編小説。明治三十年代以降の信州と東京を舞台にして新宿中村屋の創業者相馬愛蔵と妻黒光の生涯を中心に作家木下尚江、彫刻家荻原碌山など多彩な人物を配した大河小説。同年第十回谷崎潤一郎賞を受賞。臼井吉見は、堀金村出身。筑摩書房の月刊誌『展望』の編集者、文芸評論家としても名高い。


*2

中島博昭著『探訪・安曇野』を参照。


*3

松沢求策・・・自由民権運動家。国会開設請願運動に尽くす。奨匡社を結成。


木下尚江・・・作家、社会運動家。普通選挙運動や足尾銅山鉱毒問題でも活躍。


井口喜源治・・・教育家。安曇野の松下村塾ともいえる「研成義塾」主宰。多くの人材を輩出。


相馬愛蔵夫妻・・・インドカリー、クリームパンを生んだ新宿中村屋の創設者。社会運動家。多くの芸術家を集めた日本初の本格的サロンを主宰。妻の黒光は作家。


荻原碌山・・・彫刻家。ロダンに師事。高村光太郎と並ぶ近代彫刻の先駆者。


*4

荻原碌山「彫刻芸術の大勢」より


*5

アメリカの諺。


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