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近畿、あるいは畿内という。

畿とは「都からわずかしか離れていない領地」という意であり、田と幾(ちかい)という字からなる会意(兼形声)文字である。畿内は、京都を中心とする山城、大和、河内、和泉、摂津の5か国。つまり、古くは王朝の田畑が及ぶところを意味した。飛鳥京、難波[なにわ]京、近江京、平城京、長岡京、平安京と、いにしえの王朝はいずれもこの淀川流域の地に都を構えている。その都の田畑を潤した水は、すべて淀川となって集まり、難波津[なにわづ](淀川河口)にて大阪湾へと注ぐ(下図参照)。


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淀川水系の主要河川図

中でも、とりわけ大きい流域を持つ琵琶湖は、約120本の河川が流れ込みながら、出口は瀬田川一本。瀬田川は、京都との県境で宇治川と名を変え、桂川や木津川を合流した後、淀川となる。


その延長距離、わずか75km。川の長さは、例えば利根川(322km)と比較すべくもない。しかし、この太く短い川は、瀬田川、宇治川、淀川の3つの名を持ち、それぞれ際だった個性を発揮しながら、日本史という、いわば時と人とが織りなす膨大な流域の中央をも流れてきたのである。


実際、約3万本を数える日本の河川の中で、この川筋ほどきらびやかな歴史を持つものは他にないであろう。


古くは大化改新(645)の翌年、宇治川の架橋があげられる。この宇治橋の創建は、大和政権の勢力を東へと伸ばす契機となったことで、“律令国家の記念碑”とも評されている。

続く壬申[じんしん]の乱(672)においても、勢多橋(現在の瀬田唐橋)の攻防、宇治の橋守などが勝敗を決した。


さらに京都に都が移される(794)に及んで、この川は、いわば京の防衛の喉元として、幾多の戦乱の決定的局面に必ずといっていいほど顔を見せることになるのである。


薬子[くすこ]の変(810)、承和[じょうわ]の変(842)。そして、源平の争乱時代になると、この川をめぐる攻防が、華やかな軍事絵巻のハイライトとして登場し始める。あげればキリがないが、軍記物の華といわれる源頼政の「橋合戦」(1180)。義経対木曽義仲の宇治川の合戦(1184)。とりわけ名高いのが、梶原景季と佐々木高綱による、いわゆる「宇治川の先陣争い」であろう。


さらに、平安王朝の最後の抵抗となった後醍醐[ごだいご]天皇による建武の政変。瀬田には名和長年[なわながとし]、宇治に楠正成、淀に新田義貞[にったよしさだ]を配置するなど、まさにこの川筋そのものが天下を分かつ戦線となった。

北朝の足利側が勝利を収め、室町幕府が興ったものの、最後の15代将軍義昭も織田信長の槇島[まきじま](宇治川の中州)攻めによってあっけなく滅ぶ。

その信長亡き後、明智光秀と豊臣秀吉が勝敗を決したのも、この川沿いの地・山崎(天王山)の決戦であった。

そして、豊臣秀吉はこの川の大改修に取り組み、大坂城、淀城、伏見城と京都・大阪を結ぶ軍事・経済の大動脈を築くのである。


江戸時代は戦禍も去り、この地は茶の名所として全国に名をはせる。

しかし、幕末、宇治川沿いの堤は、「鳥羽・伏見の戦い」の場として、再び、徳川260年の幕を閉じる歴史的な戦場となるのである。


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平等院鳳凰堂(写真提供:平等院)

戦乱ばかりではない。というよりも、むしろ、この川を決定的に有名にしたのは『源氏物語』ではなかろうか。

日本文学史上最高傑作といわれ、世界的遺産とも評されるこの54巻からなる長編小説。45巻「橋姫」以降が、世にいう「宇治十帖」である。作者紫式部は物語の舞台を京都からこの宇治に移し、人の世の明暗(ものの哀れ)を宇治川の此岸[しがん]・彼岸[ひがん]に例えながら、その儚[はかな]い時の流れを絢爛[けんらん]かつ風趣[ふうしゅ]豊かに描き出している。


実際にこの地は、今も際だって風光明媚であり、当時、藤原貴族達の別業[べつぎょう]の地(下屋敷)であったという。平等院はかつて源融[みなもとのとおる]の別荘であったものを藤原道長が買いうけ、さらにその息子頼通が寺院に建て替えたものである。

平等院と同じく世界遺産に登録された宇治上神社をはじめ、萬福寺、三室戸寺、興聖寺など由緒ある寺社が多い。

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古来、この川筋ほど歌に詠[よ]まれた川も少なかろう。
川そのものが、文化財であると言えるのではなかろうか。

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