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巨石の中に刻が流れている。


岩ができた何億年という悠久の時間ではない。刻まれた記憶はわずか百数十年。セピア色ながら生々しい歳月である。

半ば地中に埋もれているが、直径6、7メートル、重さは約400トン。乗用車300台分を集めた重量に匹敵しようか。常願寺川堤防の外(富山市大場)にあるこの岩は安政5年(1858)の大災害で立山の山中から四十数キロも流されて、この地で止まったという。


常願寺川中流、およびその周辺にはこうした100~600トンもある巨石が40個ほど点在している。さらに、川の上流部には数千個とあるらしい。

いくら川の洪水が激しいものだとしても、数百トンの岩を流すことはありえまい。川を流れたのは水ではない。泥水でさえない。岩と土と砂に加え、山の森やら草木やら、すなわち、立山連山の一峰をなしていた鳶山が山ごとずるりと抜け落ち(地元では「山抜け」と呼ぶ)、古今未曾有の量の土砂や岩々が河道をつたって流れ出たのである。いわば、常願寺川は山そのものを流したことになる。


この災害の凄まじさは後述するとして、驚くべきはその後の常願寺川の変貌ぶりである。昔は平野部の最上流にある雄山神社あたりまで帆かけ舟が通ったという深い青みをたたえた川は、その後、豪雨のたびに激しい土石流が発生し、水の底で岩と岩がぶつかり合って火花すら発するという海内無双の凶暴河川へと変わってしまったのである。


「山抜け」の起きた安政5年といえば維新の10年前。その後の明治年間に起きた常願寺川の水害は41回。とりわけ明治15年~同24年の10年間には8回もの破堤を繰り返している。


崩れ落ちた土砂の量はおよそ4億トン。このうち半分の2億トンが怒涛のごとく平野を襲い巨大な扇状地を形成した。さらに、谷間に残った半分は、大雨のたびに膨大な量を流し出し、常願寺川の川床は昭和8年までに毎年平均0.8メートルづつ上昇。周辺の田畑よりはるかに高くなるという(最大約7メートル)手のつけようのない天井川となってしまったのである。


少なくとも人口数十万という都市に流入している河川で、これほどの暴れ川というのは世界でもあまり類を見ないであろう。


一方、矛盾するようであるが、この常願寺川流域の変貌は日本の多くの河川が辿ってきた道でもあった。


国土の7割近くを急峻な山々が占め、年に何度となく台風や集中豪雨に襲われる日本では、水害を起さない川を探すほうが難しい。また、世界有数の火山列島であるわが国の山々は崩れやすく、雨とともに多くの土砂を平野に運ぶ。したがって、平野の大半は扇状地である。また、出雲の斐伊川、大阪の寝屋川、岐阜の長良川、関東の渡良瀬川など天井川も数多く見られ、中には道路や鉄道が川の下をくぐっている極端な例もある。


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大雨で増水した常願寺川

しかし、これらの川の地形は、何百年、いや何千年とかかって形成されたものである。常願寺川のようにわずか数十年から百年そこそこでこれほどの変化を遂げた平野というのは例がない。そこにこの川の特殊さがある。


言い換えるなら、常願寺川流域の人々は、他の地域が2000年かかって味わってきた川との苦闘をわずか数十年で体験させられたことになる。しかも、彼等は骨がたわむ程の思いでそれを克服し、あまつさえこの逆境を富山県最大の資産に変えてしまったのである。


火山、山崩れ、扇状地、天井川、冬の積雪、集中豪雨、洪水と渇水、霞堤、水制工、砂防、多目的ダム、河川改修、発電、複雑な用水網、水争い、水路の統合……、この川には、日本の農業土木、河川工学などが取り扱うほとんどの地勢、気象条件、そしてそれに対処すべき技術などが出てくる。さながら日本の土木技術の総合展示場であり、その意味では、最も日本的なる水土と言える。

したがって、この川で繰り広げられた水土の歴史を辿ることは、他の川、あるいは日本の水土の特殊性、もしくは「農」の営みにおける数千年の歴史そのものを語ることになるのである。もし外国人に日本の「農」を説明するなら、この常願寺川の例ひとつで事足りよう。


日本がひたすら近代化の道を歩んできた1世紀半、この富山の地で、常願寺川左岸に佇む巨石は何を見てきたのか。


岩に刻まれた農人の記憶を探ってみたい。




※ページ上部イメージ写真 : 富山市大場の巨石
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