近江は祈りの国である。
仏像の数は7000をくだらないらしい。そのうち国・県・市町村指定の文化財が780躯。この数は奈良や京都と比べても決して引けをとらない。わけても観音菩薩像は167躯。約8割が平安時代の作という。
この地の寺社の多さはただごとではない。しかも、京都のような大伽藍を構えるものはひとつもなく、その大半が無人のつつましやかな観音堂。像の多くが平安時代の作だが、中世から続いた幾多の戦乱をくぐり抜けてきたため、焼けただれたり手足をもがれたりした痛々しい観音像も少なくない。
平成8年、冷水寺の観音像の台座下から平安中期の作とみられる焼け傷んだ菩薩像が現れた。
寺に伝わる伝承では、賤ヶ岳合戦の時、柴田勝家軍によって堂舎は焼かれ、火に包まれた本尊は村人によって運び出されて焼失だけは免れたという。
洞戸の集落には、合戦の時に老人が燃え盛るお堂に飛び込み、自らの腹を裂き像を入れて守ったという小さな胎内仏をもつ地蔵菩薩もある。
全国の十一面観音像の中で最高峰と称えられる渡岸寺の観音像。この像も織田信長の小谷城攻めで本堂が戦火に焼かれ、村人が地中に埋めて難を逃れた。大正末期に観音堂が再建されるまでは茅葺きの簡素なお堂に安置されてきた。
この地の観音のひとつひとつがそうしたエピソードを秘めて静かに佇んでいる。
いわば、小さなローソクの炎を人の手で覆うようにして1000年も守ってきたわけである。奈良や京都のきらびやかさとは全く異質の、人という生き物の温もりで育てた仏教文化。
井上靖はこの地の村人と観音像のかかわりについて『星と祭』の主人公にこう語らせている。
「信仰という言葉を使っていいかどうかさえも判らなかった。信仰というものはあのようなものであろうか。それに縋って生きようという烈しいものは感じられない。ただ愛情深く奉仕し、敬愛の心をもって守っているとしか思われない」。
湖北に生きる農人の顔には独特の味わいがある。歴史の重さに耐えながらひしひしと住み暮らしてきた歳月の古び、諸相への愛しみとでも言おうか。
ともかくも、この土地の特異な信仰を生んだ風土を「農」という視点から探りながら、「十一面観音の里」という詩的風景に、願わくは「農」の彩りを添えてみたい。