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この図は、経緯、標高などの正確な地図データを解析し立体化したコンピューター画像である。要するに、ビルや家屋などの建設物をすべて取り払ってしまった裸の大地の姿。私たちは、まず、現在の地形が寛治図と大差ないことに驚かされる。図の砂地のように見える地帯が、かつて全部海だったとしても不思議ではない。


●越後山脈や飯豊山地といった広域の山塊に降った雨や雪は、1000本を超える川となって新潟平野に流れ込んでいる。


●それらの川は、寛治図に描かれた河口部(新発田、新津、長岡など)までは深い谷を刻んでいる。


●ちなみに、信濃川における長岡から新潟までの勾配は、実に1/4100。加治川にいたっては1/5000~1/7000。数キロ流れてようやく1m下がる程度の勾配にすぎない。


●現在でこそ川の流れは巨大な堤防で固定されているが、昔は大雨が降るたび生きた大蛇のようにウネウネと流路を変えて暴れ回ったことが容易に想像できる。


●さらに、その時に濁流となって流されてきた土砂も行き場をなくし、かつての海は次第に山側から埋め立てられていった。

●ところが、海岸線一帯が堤防のように盛り上がっていることに注目したい。寛治図に描かれた(新潟と背沢の間の)島々の位置にあたる。もちろん堤防ではなく、海側で形成された砂丘らしい。高さは20~30m。おそろしく長い帯状の小山と言ってもいい。


●そして、平野の所どころ白地になっている部分が、海抜0m以下(中央の大きな白地こそが戦前まで“地図にない湖”と呼ばれた亀田郷一帯)である。


●つまり、海岸線一帯の方が内陸部より高くなっている。要するに、新潟平野は全体として細長いすり鉢のような形状となっている。海というより広大な湖である。


●したがって、歴史的にみれば900年という極めて短期の間に、浅い湖は山脈からの土砂に埋め立てられ、八郎潟の何倍もある巨大な“潟”が形成されたのであろう。


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