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icon太田川と原野谷川の合流


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今も残る旧原野谷川の跡
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図3:1686年に描かれた
古図による浅羽の推定図
(参考:浅羽郷土資料館・
近藤記念館のパネル)

農民にとって最も恐ろしいのは何と言っても洪水でしょう。しかし洪水を避けて高い土地に水田を造れば、(ポンプでもない限り)水を引いてくることは不可能です。利水(水を引くこと)と治水(洪水から守る)は矛盾するのが常でした。

この地に大規模な大地の改良が始まるのは、1604年に行われた太田川と原野谷川の合流からです。

指揮した代官は徳川家康の家臣・伊奈備前守忠次。伊奈忠次は、家康とともに江戸に移ってからは、利根川の付け替え、運河や水路の開削など、当時、利根川の氾濫原に過ぎなかった関東平野を沃野に仕上げた天才技術者であり、今も関東各地には備前堀、備前堤(忠次の官名)といった現役の水利施設がたくさん残っています。

忠次は大きく蛇行していた原野谷川と太田川(前頁図1参照)をほぼ直線化し、この2つの川を合流させたのです。さらに仕切った川をため池として利用し、周辺や下流の村々の用水としています(図3参照)。


icon浅羽大囲堤


続いての改良は大堤防の築造です。

この地域には「延宝の高潮」(1680年)と呼ばれる大惨事が伝えられています。このときの死者・行方不明は300人とも4000~5000人(『長溝村開発由緒書』)とも言われており、民家6000軒が流されたというも伝承もあります。大水害でした。

当時の横須賀藩主であった本多利長は普請奉行の柳原十内に命じ、領内である浅羽をぐるりと取り巻く延長14キロの大堤防を造らせ、松も植えて道路として整備します(図3)。

この浅羽大囲堤は昭和の土地改良事業によって次々と姿を消してゆきますが、近年までところどころにその痕跡が残っていました。

余談ですが、この工事は長溝村(袋井市長溝)で中断されています。藩主の本多利長が「領内の政事よろしからず」という理由で改易されてしまったからです。

 

柳原十内は「十内圦」など領内の整備に大きな功績を残していますが、大囲堤築造の中止の命を受け堤の上で切腹したと伝えられています。


icon浅羽の掟杭堤


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現在の磐南平野

この大囲堤は確かに高潮被害の防止には効果的でしたが、その後の浅羽地区の大きな紛争の種となります。

浅羽の中ほどには「中畦堤」という東西に伸びる小さな堤防があり(図3参照)、この堤を境に上輪の村・下輪の村と分かれていました。この堤によって下輪の村は上流からの洪水を防げましたが、田や飲料水の水源を失うことになります。

対して、上輪の村々は水の便は得ても、この中畦堤があるため常に悪水(排水不良)に悩まされ続けることになります。

したがって、この堤の存在をめぐっては、過去に何度か争いがあり、江戸での裁判を仰いでいます。堤の高さは上流の集落と同じ高さになるよう決められ、堤防沿いに高さを記す26本の杭が設置されました。以来、この堤は「掟杭堤」と呼ばれるようになりました。古くなった杭の取替えは、12年ごとに上下集落の代表が集まり儀式のように厳密に行われました。

昭和28年の水路工事で「掟杭堤」を取り払うことになった際にも、数百年という伝統を破るものとして紛糾し、新たな覚書を交わしています。


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浅羽地方は「浅羽一万石」と言われるほどの米どころでしたが、こういう農民の過酷な労働で支えられていたのです。

icon命山


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大野命山

図3には浅羽大囲堤の外に2つの村が描かれています。大野村と中新田村。地形的に堤防の内側に入れるのは無理だったのでしょう。

「延宝の高潮」で大水害をこうむった2つの村は、独力でそれぞれの村に大きな人工の山、通称「命山」を造ります。

大野命山は高さ3.5mの長方形で、頂上には270人が避難可能。また、より海に近い中新田村の命山は高さ5m。頂上には130人が確保できたとのことです。

その後の高潮では命山に避難し、舟で対岸の横須賀から食料を運んだり、潮が引くのを待ったりしたことが記録に残っています。


いずれにせよ、平野下流に生きる農民は、何百年にわたって筆舌に尽くしがたい苦難を強いられてきたのです。




 ※ページ上部イメージ写真 : 大野命山
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