これは大正時代の亀田郷の地図である。ここに描かれた場所がその後どのような変化をたどっていったのか、大正から昭和にかけての写真と現在の写真を比較することで感じていただければと思う。また下のコメントは亀田郷土地改良区編『亀田郷の昔語り』から抜書きしたものである。昔の農民の暮らしを偲んでいただきたい。
「低湿地帯は長年にわたるアシの根の腐食した厚い堆積物で成り立った地層です。その層には土砂は全くなく、泥炭層の軟弱地盤であります。水に浮いているといわれるような田んぼもあって、昭和三十三年の豪雨の時など、土の少ない田んぼが浮かんで流れてきたこともありました。」
(鳥野潟の埃土すくい)「一日の作業量は潟土13艘、下土2艘。これが一日のノルマであった。一年間のうち七、八、九月は毎日ジョレンかきに明け暮れたものだった。多い農家で三百艘、少ない人でも百艘も積み上げたものである。……1センチでも3センチでも田の面を上げるため、そして心の底から今年こそ豊作になって欲しいと祈った。」
「学校に通うにもほとんどの生徒が素足同然で冬は深靴といってワラグツを履いて通学したものです。その頃は昼食の弁当を持っていけない子供も大勢いて、腹の空くのを我慢して授業を受けていました。」
「明治時代には、収穫が終わるのは十二月末ころの時もあったという。雪が降るのに裸足でハサ稲を担いで入れたこともあったと昔の人は話していました。庭があかなければハサ入れができない。ハサがあかなければ稲刈りができないで、ハサ稲が庭に入れば、毎朝三時に起きて夜が明けるまで仕事した。」
「田植え(さつき)は一番日の長い時であり、未明から日暮れまで十四、五時間もの長時間水田に浸り、腰を曲げての重労働であったが、また賑やかな楽しい仕事でもあった。大作の家は人を頼み、作の小さい家はお互いに結をして五、六人から十二、三人で行なった。」
「小作人は地主から田んぼを借りて、二町五反くらいは耕作していましたが、米はほとんど地主に納めて、手元に残る米は少なかったです。毎年のように肥料商や米屋から生活費や肥料代を、その秋に取れる米を抵当に、借金をしていました。残り少ない米は借金の返済に当てなければならず、秋に米が取れても手元には何も残らず、また借金をしなければならない。毎年、その繰り返しでした。」
「梅雨時には三日間も雨が続くと、上流からの出水は堀からあふれそうになり、集落民総出でジョレンを持ち堀の泥をさらい、あるいは稲株を抜き取り、溝畔(水路の土手)上に土嚢がわりに積み上げ湛水を防御したものである。水は余っても足りなくても、上流・下流間の争いはしばしば起こった。」
「人糞尿を施した田の泥水が顔や着物に跳ねて体中が臭く匂うのだったが、それが当時は当たり前のことであった。稲の追肥時には、肥料桶の縄を肩にかけて桶を前に抱き、カラスガイのひしゃくで一株あて人糞をかけながら田を漕ぎ歩いた。」
「沼垂に行くには潮の干満、風の方向などの知識が必要で、長年の経験でそれを利用して舟を出したものです。潮の引く干潮は午前二時頃で、このころは南風が吹いているので、これを利用して新潟市方面に行きます。午後からは満潮になって潮が満ちてきて北風にかわるので、これを利用して帰ってきました。」