近世の農村計画

近世農村の理想像

 近世にはさまざまな新田村落が次々と出現したが、村落の理想像はどのようなものであったのか。
 中世の終わりに成立した『清良記』には「上分の居所は背後に山を追って、前に田をふまえ左に流れを用いて右に畠をおさえ、親譲の地方を屋敷廻りに多くひかへて居らざれば耕作心のままには仕得ず候」とあり、林野から水田までの地形に沿った村落形態がよく表現されている。


大原幽学の奨励した農家の様式


大原幽学の指導をうけて建設した
鏑木宿内の土地利用


二三五の法

 地方役人の教科書的な書物『地方凡例録』に「二三五の法」というものがある。200間(約360m)四方の土地を縦横五つずつに分割し、中央の1区画を空地、西北隅の4区画を6軒の屋敷とする。各屋敷は3反(約30a)でうち1反が家や庭、1反が薮、1反が上畑とする。屋敷地に近い方から上田(1町×2方)、中田(1.5町×2方)、下田の折廻し(5町)とする。田の石盛をそれぞれ12、10、8とし、上畑を10とすると、石盛の合計が100石となる。こうした、集落からの距離により耕地の分級を行い空間的に割付けていく方法は一般的で、享保期に出された新田耕地の設定法「三ッ折」も同様である。
 これらは、年貢の集取に係る土地評価であるが、同時に村落の空間構成ともなっている。


近世の農村整備

 武蔵野や干拓新田などの整然とした姿は、新村建設時だけではなく、古い集落が改造された例にも見られる。大原幽学が行った下総台地の長部村(千葉県干潟町)では密集した部落を分散し、谷地田と屋敷・山林を一体とした配置をとった。また、香取社領下小野(千葉県佐原市)でも集落移転を行って台地上に列村を形成した。
 このような農村整備は、歴史の曲がり角に現れる。


新田集落 (児島湾干拓地)


明治39(1906)年に耕地整理を行ない集落移転をなしとげた舟川新(富山県朝日村)