古代国家が全国の基盤づくりを目指した時代

古代国家体制の成立

 鉄製の農工具が普及し、それを利用しての開墾とかんがい施設の整備、さらには水田稲作技術の進歩などによる農業生産力の高まりは、血族関係を中心とした同族集団「氏」を地域的な支配を可能にするまでに成長させた。その中から有力な集団が連合し、連合の首長が生まれた。ここに新しい統一的な国家体制が誕生する。律令制といわれるものである。
 律令制は、大化の改新(645年)によってはじめられ、大宝律令の制定(701年)によって完成した。この体制の成立により、それまでの同族集団である豪族たちによる土地所有は制限され、中央集権の支配体制ができた。しかし、これらの豪族の身分や経済的な生活基盤は、実質的には保証され、貴族階級として新しい体制の中に組み込まれていった。
 律令制の基本は、周到な国家機構と公地公民制に基づく班田収授制であった。当時の人々は、国家から口分田とよばれる一定の面積の農耕地を与えられた。この班田制は、男子の2段(約24a)を基本として、女子にはその3分の2、奴婢には3分の1の口分田が与えられ、その給付は6歳以上終身の間に6年毎に行われた。しかし、人々には、中央政府や豪族たちの生活を支えるための租・庸・調などの租税が課せられた。また、雑徭は、国や郡への労役で、1年に60日におよぶ無報酬の労働であり、耕地の開発やかんがい工事などのうち国家的な大事業は、この徴用された農民の労働力によってまかなわれていた。

墾田政策の登場

 やがて班田収授の法による土地制度には、口分田の不足という事態が生じ、これを解消するための墾田政策が登場した。養老7(723)年には「三世一身の法」が定められた。この法は、新たに溝池(水路や溜池)をつくり開墾を営む者には三世(本人・子・孫)の間、旧溝池を再整備して開墾を営む者にはその一身(本人)に与えるというものである。
 天平15(743)年には「墾田永年私財法」が定められた。この法は、農民の流亡による耕地の荒廃を防ぎ、新しい耕地を拡大するために、開墾を奨励したが、墾田は私有財産となったので、公地公民制度を自ら崩すところとなった。大寺院による開発や、私人による小規模な開発の結果、8世紀の後半には私有化された耕地が荘園として定着している。
 こうした開発主体の国家の手からの転換を促す政策が荘園を生み、律令制そのものの崩壊を生み出すもととなったが、この時代に進められた開発が、わが国の国土形成に一つの画期を形づくっている。

土地をきざむ碁盤の目

 律令期から荘園体制下にかけての、代表的な基盤づくりの事業は、都の建設と農業の基盤づくりであった。唐の都にならった都が中央に続々と造営された。藤原京・難波京・平城京・平安京と、縦横に規則正しく直角に交わる街路を宮廷を中心に配置した壮大な都が出現し、地方にも国府などが設置された。
 しかし、全国的な規模で班田制を推進するための条里制は、さらに大きなスケールで国土をおおった。これは1辺が1町(約109m)の碁盤の目に区割りし、それぞれに道路やかんがい水路を整えるという方針のもとに、経済と財政の基礎づくりのために耕地を全国的に規格化された区画形状に整備し、新たな開発もその規格のもとで進めたのである。
 条里水田の開発は、農民の労働により行われ、維持や修理も農民の手にまかせるという形態であった。8世紀中ごろには、規格化した耕地に何条何里という地番をつけ、公的な土地制度として確立した。この制度は墾田の私有化の進む新しい段階での土地の表示システムとして、土地の国家的な掌握と支配を目的に行われたとされている。また、地方行政制度として国郡制も同時期に成立し、その境界などの区画や里(郷)としての把握にもこの条里制は用いられた。このようにして律令国家は、計画的・組織的に開発と土地の把握を進めようとした。
 条里制は、開発が進んでいた西日本では当時の都があった大和平野をはじめとして、各地の平野で行われた。これに対して、東日本では国府所在地の周辺などで、わずかに行われていたにすぎない。この条里の跡は、各地にみられ、現在の土地利用にまで影響を残している地域もある。

 条里地割の中の土地利用は、すべてが常に耕作できる水田なのではなく、畑や未墾のまま放置された土地もあったといわれている。これは、地割りが行われても開墾されない土地があったり、開墾や用水路の整備が行われても当時の技術では用水源の開発が困難であったためと考えられる。しかし、大和・山城などの平坦地水田では、かんがいは、溜池を小さな谷につくり、河川からの用水の取り入れも行われる程度にまで進んでいた。こうして、開発は条里制によって平野を中心に大規模に進めら札わが国の平野の大きな骨組みができていく。


奈良盆地の条里遺構(大和三山付近)