列島のなりたち

 動かない陸地も、気候の変動に応じた海進・海退で拡大・縮小するが、それとともに植生が変化して人々の生活舞台が様変わりする。こうした環境の変化に応じて、人々の土地に対する働きかけも異なってきた。

 わが国に人が住むようになったのは十数万年前であろうと考えられている。そのころから、日本列島は、大陸と陸続きになったり、今よりもずっと小さな島であったりという長い長い歴史のあと、ようやく現在の姿をとるようになった。約1万年前に最後の氷期を過ぎて、日本が列島として形成された後、気候の温暖化に伴い海岸線が内陸へと進んだ。これは縄文海進とよばれる海進で、約6,000~5,000年前にピークを迎え、現在の海面より2~4mも上昇した。現在の沖積平野の大部分は海中にあって、複雑に入り組んだ海岸線で区切られた浅い入江は、魚貝類のよい生棲地となった。このころの遺跡にはおびただしい魚の骨と貝殻がみられ、魚貝類が重要な食糧源となっていたことがわかる。今日では冷涼な中部山岳地帯以北も、そのころは暖かかったため、動植物が豊富で狩猟・採集を主とした縄文人の居住地は、平面的にも高度的にも拡がった。
 稲作が渡来したのは、このような時期の後である。稲の栽培には温暖多湿な気候が適しているが、稲作が渡来した縄文晩期から弥生前期にかけては、後氷期のうち最も気温が低く、現在より稲作に対して条件が悪かったらしい。最も気温が低くなった時期は弥生中期の1世紀ごろとみられるが狩猟・採集ではもはや生活が維持できなくなり、生産力の高い水稲耕作に転換せざるを得なくなった。
 この時期には、気候が冷涼な反面、海面が現在の水準より2m程度下がり、海岸線が後退して沿岸部に低湿な平地が出現した。これを弥生小海退という。土地改変の技術が未熟であった弥生人にとって、湿地が多いことは食糧生産の場が豊富にあることを意味している。このように、稲作にとって都合がよく、天水で耕作が可能となる土地があちこちに現れたため、気候が少し悪くてもそれを補って稲作が急速に拡大したのであろう。
 弥生中期からは再び徐々に海進に転じ、10世紀ごろには海面の高さが現在の海面を越える高さまで上昇したとみられる。この海進は縄文海進よりもゆるやかで、また規模が小さかったらしい。
 このころの開発は、条里制の施行とともに進んだが、復元された条里地割はほぼこの海進で上昇した海面以上の面に残り、それ以降陸地になった面にはない。また、かつて低地にあった集落が水害のない山麓や古い沖積地へ移動する現象がみられる。


縄文期の貝塚の分布と海岸線
貝塚の分布から、内陸まで海が入り込んでいたことがわかる。


貝塚の出土状況(千葉県加曽利貝塚)


晩氷期以降の気候と海面の変化
年平均気温と,海面の変化は並行し、現在の気温より相対的に暖かければ海面は上昇、寒ければ低下する。