流れを固定する、紀州流

 関東流の特徴といわれる河川の蛇行、広い川幅、溢流方式は、江戸中期、都市や耕地が拡大すると、洪水被害を増大させた。そして、未開発の大河川下流デルタ地帯では、相変わらず乱流が放置されたままであった。そのうえ、用排兼用の関東流の利水形態では、常に下流の用水確保が上流の排水困難をまねき、開発が進むにつれて上流と下流の対立が顕在化した。ここにきて関東流による新田開発は、技術的限界をむかえた。
 このころに登場するのが8代将軍吉宗である。吉宗は「享保の改革」推進のために新田開発を奨励し、紀州から井沢弥惣兵衛為永を召集(1722年)、彼のもつ土木技術を関東流に代わるものとして採用した。いわゆる紀州流である。  紀州流は、関東流の乗越堤や霞堤を取り払い、それまで蛇行していた河道を強固な築堤と川除・護岸などの水制工により直線状に固定した。大河川中・下流地帯の主要部にはじめて高い連続堤が建設され、川の水は河川敷の中に押し込められた。これにより流作場や遊水地は廃止され、放置されていた中流の遊水地帯や下流の乱流デルタ地帯の新田開発が進められた。
 紀州流による干拓には、飯沼・見沼のほか、越後の紫雲寺潟など有名なものが多い。さらに、見沼代用水の開削にみられるように、紀州流は、河川中・下流の沖積地を対象に大河川からの直接取水により大規模な用水路を設けて取水量の増加を図り、排水河川を分離するなど、それまでの個別的・反復的な用排水システムを改良した。これで従来からの上流の排水と下流の用水の矛盾は緩和され、この地域の用排水の基礎となる体系が成立した。


 紀州流は、わが国独特の技術で、それまでの洪水処理のような、自然を受け入れる技術段階から、自然を積極的に制御するという技術段階への飛躍を実現した。同じアジア・モンスーン地帯で他地域と異なった道をその後歩んだ遠因がこうした集約的な技術がもたらす高度な生産力と蓄積、さらには社会形成のあり方であるとさえ思えるほどの意味をもつ、大きな技術的転換であった。
 こうして関東平野の姿は大きく変貌し、流域に水田が開かれるとともに、現在にまでつながる地域の用排水系統が確立していくのである。


紫雲寺潟の干拓



堤堰秘書にみられる合流点工法
河川合流部の水制のため、乱杭や乗越籠を設け、土砂を沈澱させる方法を示したものである。


加治川の遊水池であった紫雲寺潟の干拓は,加治川と紫雲寺潟を結ぶ境川を締切り,干拓地内の排水を日本海へ落とす長者堀を掘削することで行われた。干拓地の周囲には,西付廻川・東付廻川などの廻し堀が設けられ,周辺の古村からの排水を受けるとともに,用水を新田内に分配する。この廻し堀の用水源は,加治川をはじめとする河川であり,大樋用水路や高山寺江により導水した。溜井を用水源とした関東流の椿海干拓と大きく異なる紀州流干拓の特徴である。


近世土木技術の諸流派