北海道を拓いた植民計画

 明治維新後、開拓のフロンティアは北に向かった。明治7(1874)年「屯田兵例則」の発布により、開拓と辺境防備の目的をもつ屯田兵村の建設が本格化した。同年11月、札幌郡琴似村で兵屋200戸を建築、翌年宮城・青森・酒田3県および開拓使(道)管内からの志願者193戸、965人が移住したのがはじまりで、年々数百戸の移住をみ、明治36年に制度が廃止されるまで、37兵村、7,337戸、39,911人が入植し74,755町歩(約74,755ha)の開発を行った。
 屯田兵村は、現在の人口稠密地域である上川・空知・石狩にかけて広がる平地帯に多く分布しており、年代が下がるほど農耕目的が重要視されており、明治中期に上川盆地の稲作が確立するのと軌を一にしている。通常、1兵村は200~240戸からなり、1戸当たり5町歩の土地が支給され、練兵場・官舎・学校など公共施設を囲んで兵屋が規則的に配列されていた。
 たとえば、初期の琴似兵村では、村の中央に幅10間(約18m)の道路を交差させ、区切られた4ブロックを幅6間の道路で50間×30間に画し、これをさらに10間×15間の5戸2列に等分して宅地とする計画的な密居集落を形成した。耕地は兵村外に配置されたが、土地の配分が何度も繰り返し行われたためかなり錯雑化していた。  これに対し、上川地方では1戸当たり30間×150間の区画で10戸ごとに道路を設けて格子状にしており、道路の両側に宅地、その背後に耕地という開拓集落特有の形態をとる。美幌兵村のように一度に5町歩の配分を受けたところは、30間×500間の短冊状の土地に任意に兵屋を建てた散居となった。
 こうした屯田兵村を島状に残しながら、全道を統一的に区画するのが明治29年発布された規定に基づく植民区画である。幅10間の基線とそれに直交する零号を基準に、順次300間間隔に区画する道路は、線(幅6~8間)、号(幅4間)にそれぞれ番号のつけられた号線道路と称される。この300間四方が中区画であり、入植に当たっては中区画内の100間×150間(5町歩)の小区画を各戸に配分することにし、300~500戸を1村として共同施設を構えるという組織的な配置がとられていた。この区画割は、アメリカをモデルとした牧畜と大農経営に適合し、低平地から丘陵地に至るまで原則を貫くのに容易な北海道ののびやかな地形ともあいまって、広く導入された。
 これらの区画は今でも農村部のみならず、都市にまで明確に刻印されており、その後の地域発展を支える骨格となった。現在、北海道は食糧基地としての地位を揺るぎないものとしているが、その基盤に、こうした骨格の上に成立している大規模な農業経営があることは注目に値する。


富良野盆地の植民区画の広がり


 こうした屯田兵村を島状に残しながら、全道を統一的に区画するのが明治29年発布された規定に基づく植民区画である。幅10間の基線とそれに直交する零号を基準に、順次300間間隔に区画する道路は、線(幅6~8間)、号(幅4間)にそれぞれ番号のつけられた号線道路と称される。この300間四方が中区画であり、入植に当たっては中区画内の100間×150間(5町歩)の小区画を各戸に配分することにし、300~500戸を1村として共同施設を構えるという組織的な配置がとられていた。この区画割は、アメリカをモデルとした牧畜と大農経営に適合し、低平地から丘陵地に至るまで原則を貫くのに容易な北海道ののびやかな地形ともあいまって、広く導入された。
 これらの区画は今でも農村部のみならず、都市にまで明確に刻印されており、その後の地域発展を支える骨格となった。現在、北海道は食糧基地としての地位を揺るぎないものとしているが、その基盤に、こうした骨格の上に成立している大規模な農業経営があることは注目に値する。


琴似屯田兵村の兵屋
うっそうとした原生林を伐り拓いて、このような兵屋が建設された。(北海道大学図書館)




北海道の開拓と屯田兵村の分布


稲作限界の北進


原生林を伐採して土地を拓く屯田兵
伐木は冬期、雪上で行ったほうが容易なため、このような背の高い切株に囲まれての開墾となった。切株は大正期まで残り馬耕が困難であったという。