新田の命運を握る堰、吉井川

 岡山県東部を貫流する吉井川の下流部には、水田地帯が広がっている。これら水田の開発は、平安初期にはじまったといわれ、河口部の児島湾周辺には、江戸時代の干拓地が広がっている。これらの地域をかんがいするため、吉井川下流には、田原堰・坂根堰・吉井堰・鴨越堰の4堰が設けられている。
 江戸期の初め、この地域では池田藩政下での政策立案に当たって、新田開発について2人の家臣、熊澤蕃山と津田永忠の姿勢の差が現れた。
 蕃山は古地(すでに開発された耕地)の障り(障害)になるとして新田開発を抑制したが、後を継いだ永忠は大水尾(排水路)を通じて古地の改良を図り、そのうえで積極的に開発を進めたのであった。その結果、河口部の干拓地が前進することになった。
 平野河口部の干拓を行うには、干拓工事とともに農業用水の確保が必要である。吉井川下流左岸では、幸島新田(約560町歩=約560ha)のため河口から20km上流の坂根に堰堤が設けられ、大用水路により導水されている。堰の支配面積は、反復利用を加えると約3、000町歩におよんでいる。堰の取水位と新田との高低差は約8mで、水の流れは2、500分の1というゆるい勾配になっている。このため、水路は盛土上につくり、河川横断部には暗渠を設けている。
 また左岸の倉安川では、吉井に堰堤を設け、岡山城下流の旭川に合流させている。この川は、河口からの距離約20kmで、倉田新田(約300町歩)などの用水源として開削さ糺また、舟運用運河としても利用された。
 このように、現在の用水系統は、児島湾周辺の干拓地に農業用水を補強するため、17世紀の中ごろに完成したものである。しかしその後、下流平野の農業用水は、本川からの取水と地域内の小河川の利用、さらには流域を越えた開発の結果、旭川水系の用水と重複している。さらに、古田と新田(干拓地)の用水配分などがあり、複雑な用水系統となった。

 吉井川の4堰は、「斜め堰」という特殊な形状である。堰は、自然の砂州を利用して築造され、全面石張構造で、舟運のため舟通しが設けられていた。これらの堰は、吉井堰を除き、現在では農業用水・工業用水・上水道・河川維持用水など多目的な取水のための近代的な堰に改修されその機能を保っている。



石張堰当時の田原堰(昭和40年ごろ)と古図(上)