クリークが結ぶ佐賀平野

 佐賀平野を縦横に走るクリーク。少ない水を融通し効率的に使うクリークの仕組みは、近世初期にはすでに形づくられたが、こうした水利体系は佐賀藩の武将、成富兵庫茂安が基礎をつくったものといわれている。雨だけが頼りで水が不足がちの佐賀平野への用水補給に思いをめぐらせた彼は、まず地域に不規則に介在するクリークを樋管などにより相互に連絡した。そして、嘉瀬川の水を石井樋により多布施川を通じて城下に導水したほか、横落水路や市ノ江川からの用水の末流もクリークに吸収し、クリークの水源として河川を結びつけた。
 次に、感潮河川で海水が遡上することを利用し、筑後川から江湖(旧澪筋が残ったもの)に逆流する淡水(アオ)の効率利用を図るため、江湖やクリークに樋門を設けて流入・流出の操作を容易にし、江湖をクリークの第2の用水源として利用した。そのとき、中心となる佐賀江とその北側のクリークは貯留能力を向上させるため掘り広げさらに佐賀江はアオ取水の便を図るため大きく蛇行させたといわれている。
 また、横方向に流れる佐賀江には、その上流部からの内水を一旦受け止める機能をもたせ、次に、潮が引けば迅速に排水するよう、これにつながる縦水路である新川を直線化した。


クリークの川俊え(昭和30年代)
佐賀平野の風物詩の一つ、川浚えはクリークの貯留能力を確保するためにかかせない作業で、関係する村々の石高に応じて出役された。泥土は肥且天で水田へ客土された。


 さらに、彼の指導力は最大の問題である用水をめぐる村同士の利害対立の調整にも発揮され、その努力により水利組織の再編成が実質的に可能となった。そして、新しい水利システムの機能を維持するため、水管理についての細かい取り決めと用水管理作業の組織を整備した。これにより、川浚え、川干、井手揚げ、ゴミ揚げといった佐賀の風物詩が出現した。
 また、佐賀城下の洪水対策として、城下を取り巻く河川堤防の対岸側を低くした。このほか筑後川沿いに築いた千栗土居や、高潮から干拓地を守るために有明海沿岸に設けた五千間土居などの治水の業績も数多く、今なおその遺構が各所で見うけられる。こうして、平野に広がるクリーク網を中心に、江湖と河川が有機的に結びつき、平野全体で水を導き、貯留し、配分し、排除するこの地方独特の水利用の仕組みができあがったのである。




神明井樋
新川が筑後川(早津江川)に合流する地点に設けられた樋門で、淡水取水のために特異な構造となっている。上樋は洪水時の、底樋はクリークを浚う場合の排水に用いられる。淡水取水は上樋で行うが、上樋の開閉は、井樋番が淡水の塩分濃度を口で味わって判断する。