水を汲む、揚水具

 古代律令制の下で、土地とともにかんがい用水は国が管理することとなっていた。諸国の水路・池・河川の最高管理責任者は民部省長官であり、そこから得られる利益は個人とともに公のものであると定められており、平安期には諸国の池堰数を報告することが命じられた。また、造池使、解工使といった技術者や管理人も国が地方へ派遣した。さらに水争いの調停には検校使が当たることになっていた。しかし、実際には日常的な管理や用水配分の運営などは地方豪族である郡司層が、実情によく通じた有利さを生かして行っており、中央からつかわされた国司は任国を支配するのに彼らの力を利用したのであった。
 8世紀ごろから人口増加により口分田が不足し、配分したものも荒廃するようになると、政府は開墾を奨励したが、墾田の私有を認めるようになるまでは開発も進まず、一定面積の私有を認めざるを得なくなった。その結果、領主は山林原野や河川藪沢をしだいに侵食し、公田の水を私有地に引いたり、荒廃した水利施設を私的に改修したりすることを通じ、用水源や水利施設をわがものにしはじめた。やがて、荘園制が一般化すると「用水においては、したたりに至るまで、ことごとくもって寺家の進退疑いなし」というほどの強い支配意識が現われるようになり、土地だけでなく用水も私的に領有されるのが普通の姿となる。
 このような動きのなかで、乏しい水を引く道具が発達し、中世以降、集約的な農業を支える重要な道具となっていった。


水車の利用
水車の利用は平安期にはじまったとされ、「徒然草」には、「亀山殿の御池に大堰川の水を入れるために宇治の里人に命じて水をつくり灌水した」という話があり、宇治川流域で水車が用いられていたことをうかがわせる。現在に残る水車で有名なものに、福岡県朝倉町の重連水車群がある。この水車は、今から200年以上も前の創設とされ、写真の三連式1基および下流の二連式2基により、35haほどの水田がうるおされている。


はねつるべ
井戸水の汲み上げによく利用されたもので、挺子の原理を用いている。畿内の綿作地でよく使われた。(『農具便利論』より)


投げつるべ
旱魃のときなどの応急的なものとして使われた。(東大資料編纂所蔵『たはらかさね耕作絵巻』より)




竜骨車
竜骨板という水かき板をつないだものを足踏み労力で回して,樋の中の水を押し上げる。(会津若松市蔵『会津農耕春秋」より)


竜尾車
らせん形にけずった軸を管の中に密着するように入れて回転し、水をねじの回転に沿って揚げるもの。(『成形図説』より)



風車による揚水
大阪府の堺市近郊では,四季を通じて強く吹く浜風を利用し、地下水を汲み上げてかんがい用水としていた。