水をくり返し使う、クリーク

 筑後川は九州第1の大河で、下流部には約45,000haの平坦な水田が広がり、わが国有数の稲作地帯となっている。ここではクリーク(地元では堀とよぶ)が大小無数に網の目のように発達し、独特の水利用システムをもち続けてきた。
 クリークは、貯水池であり、また用水路でも排水路でもある。その起源はさまざまであり、自然陸化と開田に伴って澪筋(潮が引く時にできる水の通りみち)が残されたものや、かんがい用に掘削したものが大部分である。筑後川下流部からの取水が河床の低さと勾配の乏しさのために困難であり、中小河川の流量は少ない半面、積極的な干拓政策で水田が沖へ前進し続けた結果、大切な水源として生き残ってきた。
 クリーク地帯は水が乏しい。佐賀平野の嘉瀬川水系では河川水を、筑後川水系では感潮部で有明海の満潮時に堰き上げられる淡水(地元ではアオとよぶ)を、白石平野では地下水や溜池の水を水源としている。こうした水源から得た水と雨水を、一時貯留して汲み上げては落水しまた汲み上げるという乏しい水資源を効率よく使うための、循環的・反復的な利用がクリークの特徴である。
 クリークは、いずれも隣接クリークと連繋しているが、河川のように系統的な水路ではない。導水施設であると同時に貯留施設でもあり、しかも圃場の中に網の目のように入りこんでいるため、用水はクリークからすべて個々の農家により個別的に汲み上げられる。このため、水利用単位としては個別的・分散的で独立性が強い。水の掛け引きに、田越しのような圃場ごとの制約や水系の小単位ごとの制約は少ない。適期に水を掛け、落として田面を干すという操作も、揚水具の操作で容易にできる。河川や溜池かんがいとは異なる、ユニークな特徴である。


佐賀平野の水田地帯に四通八達するクリーク

 しかしながら、圃場より低いクリークからの揚水は、長い間人力で行われ、投げつるべの使用や踏車の2段・3段掛けなど、非常な重労働であった。その後、小型電気ポンプによる揚水が大正12(1923)年にはじまると、栽培技術の進歩もあって、昭和初期には「佐賀段階」といわれる高生産力が実現した。また、昭和40年代にも埋設暗渠かんがいや嘉瀬川のダムによる水源の増強を契機に、「新佐賀段階」が実現した。乏しい水を上手に使うために生みだされたクリークであるが、水利用の個別性や水管理の容易さという特長を十分に活かして、新しい稲作技術を導入することができたのである。

 現在この地域では、新しい時代に向けての農地整備が進められている。そのなかでの用排水システムは、新水源を確保したうえで、クリークの特長を継承した形となっている。




佐賀平野のクリーク網と集落
この地域に多い地名「古賀」は空閑地を、「牟田」は沼沢地を開発したものであるといわれている。(国土地理院2万5000分の1地形図「佐賀北部」)


踏車を使った揚水
かつて、佐賀平野のクリークでは、このような作業風景がたくさん見られた。