水が支えた荘園

 荘園開発が爆発的に進行した中世でも、条件のよい土地が選ばれたにせよ、かんがい条件の改善は、比較的大規模な開発には不可欠であった。
 奈良盆地に存在する多くの皿池は、谷を堰き止めた形の古い池を補完しているが、これらの大部分は条里地割に規制されて四角形を呈しており、中世以降の築造になるものである。皿池は、条里水田の内部に存在した水利条件の不安定な耕地の安定化や、さらには集約化の過程で、次々に増加していったのであろう。
 荘園の範囲の確定や境界の明確化の目的で多く作成された荘園絵図においても、溜池や井堰が図中の重要な事物として描かれていることが多い。越前国足羽郡道守荘(福井県)は、足羽川(旧生江川)と日野川(旧味間川)の合流点付近に位置し、河道沿いの自然堤防に囲まれた一連の後背湿地に立地している。8世紀中ごろ、それまで南東部に散在する沼沢のほとりで小規模な開発しか行われていなかったこの地域で、足羽郡大領(郡司)の生江臣東人が本格的な開発を行い、墾田を東大寺に寄進した。その際、寒江に流入する長さ1721丈(約6.3km)におよぶ溝と3本に分岐する寺溝を開削し、これらが絵図に示されている。前者は生江川から取水するもので、5本のサイフォン(度樋)によって他の溝と交叉していたこと、堤防(土掘置)を備え、耕地をも潰して(潰れ地は応損田という)新設したことなどが明らかである。管理のためには水守がいて、用水の獲得に意を用いていた。

 赤城山の南麓(群馬県)に女堀という全長約12km幅15~20m、深さ3~4mにおよぶ巨大な用水の遺構がある。この用水は旧利根川(現桃木川)から取水し、12世紀中ごろ扇状地に成立した上野国淵名荘の開発を目的に開削されたとされている。渡良瀬川が形成した大間々扇状地は、火山性山麓に特有な用水不足のところであるが、それでも開析谷に細々と谷地田が開発された。女堀は、その限られた水田開発の進行に伴う用水不足を解消するため、荘域を越え扇状地を横断して行われた国衙レベルの大工事であるが未完成に終わった。
 こうして「大開墾時代」は、規模や形態の差はあれ、用水施設の整備を伴って到来したのであった。


道守荘の溝渠断面図




赤城山南麓扇状地につくられた女堀



和泉国日根野村絵図
和泉国(大阪府)九条家領日根荘は、荒地の開発を九条家自らが行った重要な荘園であった。正和5{1316)年の日根野村絵区には、「荒野」が広がっているが、北側の丘陵縁辺を中心とした溜池の周囲には「古作」「本公田」があり、古くから開発が進んだことを表している。一方、南側の犬鳴川(大井関川)からの取水が行われ、周辺の耕地のかんがいと池水の補給に役立っていた。山沿いの二つの神社に用水の名を冠していることからも、用水がいかに責重であったかがわかる。(宮内庁書陵部蔵〕


紀伊国梓田荘絵図
これは、慶安3(1650)年に作成された絵図であるが、中世のすがたをとどめている。静川に設けられた三つの井堰および荘内への用水路が描かれている。上流の二つの井堰で取水された水は、河岸段丘上に引かれ、丘陵を越えて導かれる。最上流の用水路は現在でも文覚井とよばれ、平安後期の僧文覚の開削になると伝えられる紀ノ川本川沿いには広い氾濫原があるが、江戸初期においても手をつけられていない。一段高い段丘面から丘陵沿いの湧水など乏しい水源を利用して開発がはじまったものと考えられるが、開発に当たって静川から導かれる用水は大きな意義をもっていたと思われる。(宝来山神社蔵)