「農は国の大本なり」

 古代において国の大本とされた農業の振興を目指し、耕地の整備が盛んに行われたが、これを最も積極的に行ったのは仁徳帝である。自らつくった古墳、大山陵(大阪府)は敷地面積では世界一であり、古墳をはじめとしてその才知は数々の土木事業に遺憾なく発揮されたという。
 帝は耕地の拡大に意を注ぎ、和珥池・横野池や山城の栗隈県(京都府宇治市)の大溝(用水路)を掘り、耕地を造成した。また記紀によれば、仁徳11年、宮(難波宮)の北の荒野を掘って南の水を引き西の海へ流したとある。現代の河内平野は古代には南から大和川が北東から淀川が流入する湖であり、いずれかが洪水になると、水位が上がり湖の周辺はたちまち浸水する。これらの川は河道が不安定で、出口を砂州で塞がれていたため、帝は大和川を宮の北で分水したのであろう。もちろん、排水路を掘り、堤防を築くのは、耕地を保護するとともにその拡大を意図していた。このとき河道を固定した堤防は茨田堤といい、現在、大阪府茨木市に神社となっている。
 堤によって生まれた茨田の地は安定した穀倉地帯となり、同13年に屯倉を設けた。大阪市歌になっている「民のかまどに立つ煙」を見て喜んだという話も、こうした政策の延長上にある。
 この伝説は定かではないが、後に同じ発想で大和川を大阪湾に分水しようとした人に、道鏡事件で有名な和気清麻呂がいる。清麻呂は延暦7(788)年、大和川などの河川堤防の決壊に際して工事に着手した。この工事は、今の大阪市天王寺付近で上町台地を横切るショートカットを企てたものであるが23万人を投じたにもかかわらず実現できず、痕跡は現在、池となって残っている。


和気清麻呂の大和川付替の旧跡といわれる河底地(大阪市天王寺区)

 この発想が実現したのはずっと後、宝永元(1704)年のことである。この結果、河内平野は綿作を中心とした近世の最先進農業地帯として生まれ変わった。
 彼はこのほか、長岡京造営時に、淀川の洪水を防ぐため、三国川の開削を行ったという。また、平安京遷都に際しては造宮大夫に任ぜられ、渡来人秦氏の協力を得て鴨川の付け替え工事と都の計画につくした。清麻呂は、土木技術だけでなく庶務や故事にも通じ、『民部省例』などの書物を編んだ。遺言で死後、墾田100町歩を人々のために賑給田としたという。古代国家のもっとも関心事であった耕地の安定と拡張に、為政者は努力した。奇しくも同じ発想で大和川の付け替えを夢見たこの2人は、そんな古代体制を象徴する人物である。


茨田堤
仁徳11年,困難な築堤に人柱が立てられた。その1人、河内の茨田連杉子は、「水神が我を得んと思えばひょうたんを沈めよ」と神を試したが沈まず、死を免れた。その場所を杉子断間という。
(『河内名所図会』より)



大阪平野の河川変遷


平安京と河川計画


平安京造宮時には、整然とした街路や直線道路のほか、鴨川などの河川の付替が計画的に行われた。下の写真は賀茂川・高野川の合流点。